guest 2 高橋(山田)初美さん
part1 海外撮影にブランド立ち上げに駆け抜けた時代
KOというブランドを通して伝えていきたいのは、自分らしく、人生の後半戦を楽しんでいこう!というメッセージ。おしゃれも生き方も、苦楽ある人生をよりハッピーに楽しむために。実際に人生を楽しみ尽くしている岡本敬子さんと、素敵に生きる周りのご友人たちをnanadecorディレクター神田恵実がご紹介します。
GUEST2 高橋(山田)初美さん (60代、札幌在住)
VIVA YOU、ノーベスパジオ、ピンキー&ダイアンなど、私たち世代なら聞き覚えのある人気ブランドを何十も束ねていたサンエー・インターナショナル(現TSIホールディングス)の初代プレスとして入社。D(山田初美さんにお話を伺いました。
時代の先駆け、PRとしての仕事をスタート
神田:私が編集者のペーペーだった20代、初美さんのもと、BOSHというブランドで冨永愛さんと一緒に撮影させて頂きました。私世代の編集者としては憧れすぎるおふたり。初美さんと敬子さんはその時代を一緒に駆け抜けた師弟ですよね。その頃は、仕事で自分たちのやりたいことが叶えられた、そんな時代だったんでしょうか?
初美:好きなことが仕事になってたって言うのはあるよね。
敬子:私たちはその頃から珍しかったのかもしれませんね。周りはみんな親のために何かしたり、普通の会社に行ってOLをしている友人も多かった。私たちはそれができないタイプなんです(笑)
神田:仕事の刺激がもう、病みつきなくらいの強烈さですもんね。面白かったのではないですか?
初美:そうね、広告ヴィジュアルやコレクションの制作で国内外の様々なクリエーターと仕事でご一緒できて、沢山の刺激をもらいましたね。
神田:錚々たるメンバーと撮影されていましたね。
初美:そうそう、海外撮影は80年代中ばのパリが初めてで、その時にフォトグラファーはマリオ・テスティーノ(VOGUEをはじめ海外の雑誌、ハイブランドのキャンペーンでお馴染みの巨匠)でした。まだこの頃、打ち合わせは私のホテルの部屋に来てもらえる時期で、その後世界的なファッションフォトグラファーのトップへと駆け上がって行きましたね。
↑お宝の雑誌や昔のカタログなど、初美さんが東京から捨てずに持参したインスピレーションの源のコレクションたち。これも少しづつ整理を始めている
敬子:初美さんは、いつも有名無名関係なく、いい!と自分が思ったクリエイターを見つけてきて仕事をしていたよね。だからいつも後に超有名になった人ばかりと撮影をしていた。その審美眼がやっぱりすごいんです。
初美:80年代はパリの撮影が多くて、90年代に入ってバブルが弾け円高もあって、ニューヨークへ向かいました。初の撮影はスティーブン・クライン。その後、彼もミュージシャンであるマドンナと仕事をしてトップフォトグラファーとして活躍していきました。
↑NATURAL BEAUTYのカタログから
敬子、神田:あはははは!(大御所すぎて笑)
初美:その後、色んな方と撮影しました。90年代初めのNYはとてもエキサイティングでした。街中にミュージシャンのビョークが普通に歩いていたり、映画監督になる前のハーモニー・コリンと当時付き合っていたクロエ・セヴィニーと食事に行ったり。グランジ全盛の時代です。当時フォトグラファーとしては駆け出しだったソファ・コッポラとの出会いはLAで、90年代中頃に一緒に撮影をしました。
↑ソフィアコッポラが撮影したVIVA YOUのカタログ
神田:わー、グランジ時代は豪華な面々、楽しそうですねー! 敬子さんも一緒に働いていたんですか?
敬子:私はこのグランジの開放的な気質にのかって(笑) 一度自由になりたくて、6年半くらい休んでた時です。鎌倉に移住して遊んでいた頃。
初美:そう。それで90年代半ば頃に、私のところに訪ねてきてくれたの。なんか相変わらずいい感じで、私はケイトスペードを日本にローンチしなくてはいけない時で、プレスを探してたわけ。それで、見つけたー!って(笑)
敬子:ケイトのビジュアルを見て「これ、もりちゃん(敬子さんの旧姓の呼び名)だわ!」って。「もりちゃんに連絡しなくちゃ!」ってね(笑)
神田:ドンピシャでしたね!タイミングですよね。会社をやめて、鎌倉でそろそろ遊び疲れた頃?
敬子:「そろそろやらない?」って感じでね(笑)ケイトはクラシックな感じのヴィジュアルでとても素敵なブランドでした。
神田:しかるべき時に、しかるべき人が現れるという流れでしたね。
初美:そう、直感だけでここまで来たっていうね(笑)そこから一緒にやってもらいました。海外ブランドも色々上陸があって、ジルスチュアート、ヴィヴィアンタムなど色々手掛けました。。
バブルが弾けた時こそコンセプチュアルにブランドを作った
神田:海外の人気ブランドを日本で立ち上げるのも大仕事ですし、どれも一大ブームになりました。同時に多くの国内ブランドを回していたという、恐ろしい仕事量です。
敬子:しかもNATURA LBEAUTYというブランドは初美さんが創ったんだから!
神田:えー!私世代はドンピシャです。初美さんがブランド自体を創ったんですか!
敬子:あの時代にはないテイスト、全然違うベクトルのものをブランドにしたのがNATURAL BEAUTYでしたね。
初美:もう34年も前!90年に準備を始めて、91年にデザイナー、パタンナー、営業、私の4人がスタートメンバーでした。バブルが弾けて浮かれた時代が終わり、新しい価値観として、等身大で精神性が高く。シンプルなNYスタイルで私はリアルクローズと位置付けました。当初予算もわずかで、生地は会社に残っている残布 (洋服を生産した際の余った布など) を使いました。今思うとSDGsの先駆けだっかも(笑)
神田:個人ならわかりますが、その時代に精神性を軸に大きなアパレルでSDGsな作り方をしたあたりがやはりすごいですね。。。
敬子:ビジュアルも、確か、洋服が入ってなかったのでは? 葉っぱとか何か(笑)そういう感じで作っていたような気がします。
初美:そうそう! それがちょっと今までにない価値観だったから、一気に売れたんですよね。とにかく私の90年代は、コンセプトが重要だったから。
神田:それまでは広告も豪華で、業界はバブルな感じでしたが、コンセプトを掘り下げて女性像で魅せる、それこそがブランドのコンセプトだったんですね。
初美:精神性が高く穏やかな女性像
敬子:すごい新鮮だった!しかもNATURAL BEAUTYっていうブランド名も今考えるとすごい強いですよね。
神田:時代の先読み、まさに今私たちが伝えてい事でもあります。
初美:コンセプトブックの制作はファッションの仕事をしていないスタッフをキャスティングしました。落ち葉ばかり撮っているアートフォトグラファーに樹海で物撮りをしてもらい、画家のアレックス・カッツのキューレターをされている奥様のエイダ・カッツさんに登場してもらいました。
神田:やっぱり夢がありますね。予算がない中で洋服を見せようとした時に、あえてこの紙の厚さで大判のカタログ、しかも研ぎ澄ませた世界観でコンセプトを表現する、あえてモデルは登場しないという…ファッションが哲学である、奥深さを感じます。
初美:ブランドのカタログはイメージだけで言葉はないのよね。私はイメージにプラス言葉も一緒に伝えたかたのよね。残念ながら今はもうブランドはなくなっちゃけど(笑)
敬子:今でも通じる素敵さだよね。コンセプトがちゃんと走っていたら、世界観があればこれで成り立つ。
神田:初美さんはブランドを通して服ではない何かを伝えていたんですね。それが何かというと。。。
初美:ナチュラルで、ビューティなこと。もうバブルが弾けて。みんな少し疲れていたのかもしれない。私はやっぱりそういうバブル系の動きは個人的にはそんなに好きじゃなかったんだけど(笑)
神田:ど真ん中にいましたけど(笑)
敬子:元々はそういった派手さは好きじゃないのかもしれないですよね。もうちょっとアーティスティックで美しいものが、初美さんらしい、好きなものだから。初美さんの古い友達はアーティストばかりですし、クリエイティブは妥協なくより本物に近づけていく。このこだわりこそが、時代を築いてきたんでしょうね。
私もその頃、たくさんの刺激をいただいて、素晴らしい環境で仕事をしていたんだと今改めて感じています。
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「私らしく人生を楽しむヒント」今回は敬子さんの先輩でもある山田初美さんにお話を伺っています。バブルが終わっていく時代、お二人が業界にいて走っていた頃。そして初美さんが仕事の中心に、いつもクリエイティブを据えていたんだとわかりました。次回、時代はバブル崩壊後の大変な時代へと突入していきます!